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カネボウから配布されたカレンダーがあって、その7月に俺が撮った竜ちゃん作品が使用されています。
コスタリカのテラザで、思い返すと良い旅だったなあ。
そのアーティクルも去年SW誌に掲載済で、これがその原稿です。
*********************************
初夏は俺にとってのコスタリカの季節。
毎年行っているので、あの長い飛行機の時間を体がおぼえてしまい到着時刻になるとすっきりと目が覚める。コスタリカン・コーヒー、熱気、ムーチョ・ラスオラス(たくさんの波)、カサド(定食)、フルーツ、あの日、あの波が記憶からゆらゆらと立ち昇ってくる。
やはり最初に思い出すのはカリチェ岬の波。青い海、少し緑がかった波、岬の先に隆起したリーフ、こちら側に寄ってくる波、大きなマニューバーラインとなるライトと、激しいターンができるレフト。プライベートビーチなので、ここに住むか、舟をチャーターしてやってくるというアクセスしかないのもすてきな要因だ。実は友人シエィ・ロペスがここに家を所有していて、ちょうどフィジー戦で家を留守にするのをいいことに俺は鎌倉の中村竜こと、竜ちゃんを呼んで永遠の夏を一緒に過ごそうとやってきた。
夏の南うねりがヒットすれば、伝説レフト、 速いセクションが途切れず半kmの距離が乗れるという パヴォネスが姿を現す。アクセスは未舗装道路の山道を越えていくので、頑強な四輪駆動車が必須となる。
さて、ゲートのドアが開いたようだ。風が海と織りなすノスタルジアを求めて俺と竜ちゃんはやってきた。飛行機より降りて地に足をつけてもまだコスタリカだという実感はなかったが、長旅に一段落ついたという気持ちで少しほっとした。
ノマド=放牧というすてきな言葉があるが、俺たちはこころの放牧をしにきた。空港から山道を2時間下り、ハコビーチでその頑強な四輪駆動車を借り、シェイの家に風邪で高熱を出している竜ちゃんを休ませ、その下のカリチェ岬にリッピングを求めて行く。窓から見えたようにブレイクはかなり混んでおり、それはアメリカ公立校が夏休みに入ったからということだった。アメリカの公立校は、三~四月は春休み、そして六月から夏休みって、休みだらけだよ。そういえばマイアミ・フロリダからコスタリカまでは2時間の航行とかなり近く、悔しいほどだ。「コスタリカはやっぱり5月までに限るなぁ」と独り言。ここにいたサーファーたち全員が舟チャーター組だったようで、夕方になると10人を乗せ、そして別の舟で7人が帰り、ブレイクは去年のように静かになった。
今日は6月8日の月曜日。水曜日から南の大きなうねりがやってくるという波情報。
夜半、大粒の雨が降ってきて、それはまるで台風のようだった。明日の波を夢見て、風の音を聴きながら眠った。
翌朝、暗いカリチェ岬に行くと無人だった。気持ちよく乗り、のんびりとクルーズしていると、10数人のサーファーたちが歓声をあげ、舟がやってきた。彼らのヨロコビを見て泣きたいような気持ちになる。ここは年々サーファーが増えているという噂だが、今年は特に多い気がする。こうなったら気持ちよく海から上がり、自然のプール、潮だまりで少し遊び、明日パヴォネスに出発することを決意し、蟹の足跡だけがある砂浜をゆったり歩いてシェイ家に戻った。
翌朝未明、水、エンジンオイル、スペアタイヤ等、車の全てを確認し、地図も再確認して出発する。途中ドミニカルという混沌の町で迷い、何度も同じ場所をそして行き止まり巡りとなった。なんとか山道に出るが、標識がないのでこの道でいいという確証は何もない。とにかく陽のあるうちにパボネスに着かねばならない。山を越えた頃からドライブは一層困難となる。この時のコスタリカは記録的な大雨が降り、橋が落ちていたり、増水で道が河になっていた。そんな時は、(1)沈没しても脱出できるように車窓を開け、大事なものを身につけ河に進入する。(2)車がやってくるのを気長に待ち、どうやって渡るのか、どこが浅いのか確かめてから渡る。(3)ある時、ずっと車が来るのを待っていたが、何も来なかった。そして一匹の犬がやって来た。犬は河を右から斜めに横切り、途中から少し流されて、ラインを正面に戻し、渡りきった。俺たちはその犬ラインに忠実に進み、ここもメイク。(4)渡るのが無理な河もあった。それは幅100m、深さ推定5mといった大河。流木が多く流れ、他車もバスも徒歩もみんなここで足踏みしている。
絶望に似た気持ちで車を降りると、向こう岸から何かが来る。それは筏(いかだ)のようなもので、大きな樽と丸太を組み合わせて何枚かの鉄板を乗せ、こちら側と向こう岸に張られた鉄線をディーゼルエンジンで巻き取りながらやってくる。「おーこれなら向こう岸に行けるぞ!」と、その到着を待った。危なっかしくもこちら側に来た筏に車を載せ、待っていた人を乗せ、バスも載せて出発。料金は一台200円くらい、人は30円か。…ん?だが一向に動く気配がない。どうやら流木群がなくなるのを待っているらしい。流れてくるのは直径3m、長さ10mという大木群、そして流れが速いのでそんなのを喰らったら一発で転覆するだろう。でも流木群はいくら待っても無くならない。無くならないけどそれをのんびり待つ人たち。 俺はあきらめて車に戻り本を読んでいた。しばらくたっても動く気配がなく、「今日は無理だ。明日まで待つの?」とあきらめた途端に横断を決行した。“ブイーンドルドル~”とディーゼルエンジンが向こう岸からの鉄線をたぐり寄せている。がんばれ急げ!中央付近の急激な流れで筏は斜めとなるが、筏はおかまいなしに進む。少し心配となり、地元風の同乗者を見ると、どうやらこれが普通なようで、めいめいの荷物の上に腰掛け、熱射を浴びながら世間話をしている。向こう岸に無事に着き、安堵する暇もなく、エンジンをスタートさせ、そのまま村道を駆け、パナマ国境近くまで行ったところで3度目のガソリンを補給し、国道を右に折れると角にバーがあり、そこのささやかなる標識に【←PAVONES 68km】とあった!おお、目的地の名前に興奮し、近づいた確信にアクセルを少し踏み込み気味でガンガン向かう。
それから2時間後、夕陽の落ちる頃に俺たちはパヴォネスに着いた。思いかえすと迷い、彷徨(さまよ)った意識のまま、俺はあらゆる道の方角を疑い、なんとかここに辿(たど)り着いた。この夕陽の照り返しの色彩は感動を軽く通り越し、すでに神々しい。
目の前に拡がった湾の左側に面した玉石の河口。世界で5本の指に数えられるという長いレフトはまだうねりが小さく、ささやかなしょぼ波だったが、夕陽の色を落とした雲がやさしく浮いていた。明日南うねりが入ってくるという予想を信じ、流木の転がる砂浜を後にし、予約してあった宿に落ち着いた。出発前にハコの薬局で、抗生物質を注射してもらった竜ちゃんはまだ弱っている。よくまあこんなでこぼこ運転に文句を言わず乗っていたものだ。早く治って一緒にサーフィンしたいよ。
夜は瞬間的に去り、時計は4時半を表示していた。夜明け前にベッドから抜け出し、まだ暗いポイントへ見に行くと、昨日よりもはるかに大きな波が崩れていた。 南カリフォルニアのリンコンを逆さにし、それを2つつなげたような波質と距離で、なるほどTHE DAYには500m以上ものセクションがつながるのが明らかだ。長い波に見とれていたら太陽が昇ってきた。その瞬間は感動的で、あらゆるものが神々しく映った。
まだ熱にうなされている竜ちゃんを宿に残し、歩いてブレイクに向かう。大きいセットでダブル程度だろうか、パーフェクトで、奇跡的に長いショルダーと、広いフックを持つフェイスが特徴的だ。波質は見た目よりも堅く、レイルが噛みづらく、フィンが抜けそうになる。テイクオフし、ファーストセクションは飛ばされそうになるのをこらえながらミドルセクションまで行き、フックに一瞬だけ戻るようなカットバックをし、そのままインサイドに向かい、バレル気味をメイク。強い昂奮が高まり自然と両手を拡げていた。THE DAYの目標となる「湾の端に舟が引き上げてある浜」まではまだ100mくらいあったけど、ゆうに400mはフルスピードで乗った。
また河口の先まで延々と歩き戻り、また1本、もう1本と波に乗る。時間感覚を失い、食事を忘れて波に乗ったのはひさしぶり。昨日の辛ドライブが一気に撒散していく。夕暮れに、竜ちゃんが起きてきて、一本だけ波に乗った。病み上がりのふらふらの体で長い斜面を上へ下へ駈けていった。「すごくいい波です!」という言葉に彼の復活を知った俺は、バーにやってくるというハン・ソロを倍は太らせた風の舟乗りを見つけ、オビ=ワン・ケノビのように翌朝向こう岸のマタパロ(Matapalo)というブレイクに乗せていくように交渉した。スペイン語のみの会話だったのでかなり苦労した。「マタパーロ?マニャナ(明日)、セーズ(7)」という3つで事足りた気もしたが。
とにかく翌朝セーズの7時に虹と共に出発した俺たちはイルカと一緒に湾の向こう側まで渡ると、パヴォネスと鏡写しのライト(レギュラー)波、つまり夢景色がそこにあった。緑を基調とし、空の青をはぜたような視界に「夢心 沸き立つ波の 純粋人生」なる川柳も浮かんだ。この『純粋人生』とはコスタリカの国のスローガンで、PURA VIDAと綴る。まさにこの純な波と、どこまでも拡がる豊かな空間にこだまする鳥の声にPURA VIDAという言葉が浮いていた。魂が詰まった長い波にボードを滑らせながら次のコスタリカはここにゆっくりと来ようと決め、一日をマタパロに捧げ、波乗りへの殉教者の気持ちとなった。
永遠な時間と思っていてもそこは現実世界。ボートから降りてのんびりしているとまた豊かな日没がやってきた。蚊取り線香を点け、ベッドに滑り込み目を閉じると、愉しみは「夢の魔法波」の回想タイム。今日乗った、どこまでも伸びた緑の斜面を繰り返し思い出した。
髪をひかれる思い、とあるがまさにその気持ちだった。
朝、パヴォネスがフラットとなるのを見届けてからシェイ家に戻ろうと出発し、丸一日かけてオフロードを逆戻り。行きに迷った場所は今ではいい思い出だ。なぜかラッキー池田のフレーズ「♪ハイー、ハイッ、ハイッ!♪」と口ずさみ、軽快にハンドルを切りながら何時間も水たまりを避けながら走っていった。
これも夕方ぎりぎりにカリチェ岬に戻ると、近所のサーファーがひとりで波待ちをしていた。(あんなに混んでいた)サーファーはどこに行ったの?と聞くと、俺たちが行っている間にパヴォネスと同じうねりがここにも届いていたそうで、混雑は狂騒となり、たった1mほどのピークのポイントブレイクに50人が押し寄せたそうだ。結果、ボート代(往復約5000円)と乗れない波、または人を避けながら乗ることに対する価格が不釣り合いなことに気が付いたビジターがここを見限った結果、誰も来なくなったという。なんとタイミングがいいのだろう。もし俺たちがパヴォネスに行かなければ、俺たちも混雑で燃え尽きる、または怒りのサーファーになっていたのだろうか。ふむー、これぞ旅のドラマだと、ヤッタゾ!と血湧き、肉が躍る気持ちとなったのはいうまでもない。
翌日は早朝から魂のセッション。ここの複雑な岬の地形が織りなす波は、まるで魔法の玉手箱のようで、次はどんな波が来るのか?とクラクラするほど楽しいのだ。波乗り後、町に出るついでにビーチブレイクに行き、ハモサの大木前無人ブレイクで竜ちゃんがスラッシュしまくった。帰りにスーパーで食材をたんまりと仕入れ、ローカルオンリーの肉魚野菜マカロニポテトサラダゆで卵がたっぷり載ったジュース付きの200円定食に目をうっとりとさせ、腹を満腹にさせる。
やがて曜日はドミンゴ、つまり日曜日となった。このカリチェ岬は別荘地なので、休日となると人口が増加する。カリチェ岬の青と緑を混ぜた色の波上にさまざまな人間が集まっている。ラテン系が多いからなのか、それぞれのキャラがずばりと立ち、なかなかおもしろいのでここに羅列してみた。
(A)ローンを組み、10年前よりこの高級別荘地に住み、よってこの岬波を自分の庭だと勘違いし、またコスタリカサーフィンの長老であり、自分ではレジェンドだと信じているレストラン経営者。グーフィースタンスでセットの一番いい波に乗り、リップのそばで体をかがめるがなぜかチューブには入ってはいない。しかしそれを深いバレルだと信じている45才。
(B)サンホセに自宅があり、ここに親の別荘があり、毎週末サーフィンしにくる19才男。フロントサイド命のレギュラーフッター。
(C)Bの従兄弟。パドリングがようやくできる程度。17才だと思う。
(D)南アフリカから二年間の契約でサンホセに赴任してきた白人40才。ここにも家があり、投資目的で購入したという。「俺の家は、去年は5千万だったが、今では値上がりして1億出しても買えないよ」というのが口癖。インサイドレフトの掘れるセクションでいつもプルアウトしてしまうからAの長老がいつもこのことをたしなめている。
(E)岬の向こう側から自前の小ボートでやってくる銀髪白人。ここに20年住んでいるというがAとは仲が悪いようだ。両手を挙げたジグザグターンがインサイドでの得意技の52才。
(F)その銀髪の彼女であろう18才くらいの子。Tフロント、Tバックの極小ビキニでパドリングし、周りを唖然とさせる。しかしガニマタ横走りだけの乗り技。
(G)Aの許可を得て、正面ゲートから入ってきたハコビーチのメイン通りにある観光客相手のまずく高いことで有名な悪徳レストランの経営者47才。「パラッパラッパラ〜〜」と大声で叫びながら8’0”のシングル+スタビのド派手ファンボードでバックサイドレフトを刻む。図体が大きく、一見アルパチーノ風の目つきであるが、重度の肥満。しかし、岩場に上がる際に手際が良く、わが岩場研究班の竜ちゃんを驚かせた。海から上がると俺たちにビールを勧めてきた。
(H)カリフォルニアでサーフボードのサンディングマンをしているというこれまた肥満の白人。友人がこの別荘のオーナーでそこを借り、11日間休暇に来た40代の男。ロングボードでたまにレフト波に乗るが、テイクオフできるとバンザイを2回し、泡に飛び込む。ここの波は怖いと、正直に白状した。
(I)そのHの彼女。長身で太め。推定体重90キロ、ピークの真下でパドリングするのでかなり邪魔な35才くらいの白人。
(J)黄色のボードに乗った黒髪アジア系のブルースリー風、やせ形色男。レギュラーフッターでエアにチューブまで決めるブレイクの王者。マナーが良く、ハンサムなので、その笑顔にFがうっとりとしていた。28才。これは竜ちゃん。
(K)セットはみんなに乗せ、オバケ波が来て無理にそれを追いかけ、見事に撃沈して一番お気に入りのボードを折ったアジア系のレギュラーフッター39才。これは俺ね。
まあこんな人間観察をし、みんなの休日を邪魔しないように楽しんだ。
翌日からも同じように早朝カリチェで波遊び、潮が干くと、エストレオ・セントロに行く。このエストレオというのは黒砂遠浅の地形。それがびっしりと300m幅で決まり、柔らかな斜面と丸まった3角形の波先を見ているとまるで芸術品のように美しい。
ある朝、ハコとハモサの間の国道沿いにTERRAZAという一見リゾートホテルだが、あくまでもリゾート風味にとどめたという貧なモーテル調のホテルがある。ここの裏のブレイクをチェックしようと、ドライブウエイを走り、フロントを堂々と通り抜け、ささやかな中庭にある白人主義に陶酔したプールの向こう側に出ると、茶色い洞窟のような大バレルが爆発していた。たったひとりのサーファーが巨大バレルに吸い込まれ、長い時間をその中で費やし、遙か向こうから吹き出されていた。この波に魅せられフロリダから移住してきた元ASPサーファーのチャーリー・クーンだった。俺と竜ちゃんは目をみはり、ここに来た偶然に感謝し、ボードを抱えて沖に出た。河を従えた黒砂の砂浜が拡がっている。もう少しすると、熱したフライパンのように熱くなるのだろう。そして大岩が岬側に隆起しているテラザは地形が決まりやすく、クローズアウトしづらいビーチブレイクでその名を馳せている。竜ちゃんとチャーリー君(・クーンね)のバレルセッションが始まり、中央アメリカの妖気漂う浜を世界レベルのフィールドとした。今まで場所ばかりで竜ちゃんの波乗りについてあまり触れていなかったが、 漁師が一目置くという潜り技術、 鎌倉の斜面と、世界の波で鍛えたテクニックで師匠チャーリー君を驚かし、見物に来ていたコスタリカン、そしてフロリダサーファーにスパイスを与えていた。
このまま俺たちのこころの放牧は続き、神がかったこと、動植物にドラスティックな天候、楽しい友人達のことをこのまま書き続けたいのだが、枚数が多くなりすぎて誰も読まないだろうからここで終わることにする。そうだな、旅で大事なのは友と夕陽と波だなあ、ということを確かにしてくれた俺の30代最後の夏がこれで終わった。“Farewell.”
永遠の夏(とわのなつ) 遙か南の(はるかみなみの) 夢雫(ゆめしずく)
(了、4/7/06)
コスタリカのテラザで、思い返すと良い旅だったなあ。
そのアーティクルも去年SW誌に掲載済で、これがその原稿です。
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初夏は俺にとってのコスタリカの季節。
毎年行っているので、あの長い飛行機の時間を体がおぼえてしまい到着時刻になるとすっきりと目が覚める。コスタリカン・コーヒー、熱気、ムーチョ・ラスオラス(たくさんの波)、カサド(定食)、フルーツ、あの日、あの波が記憶からゆらゆらと立ち昇ってくる。
やはり最初に思い出すのはカリチェ岬の波。青い海、少し緑がかった波、岬の先に隆起したリーフ、こちら側に寄ってくる波、大きなマニューバーラインとなるライトと、激しいターンができるレフト。プライベートビーチなので、ここに住むか、舟をチャーターしてやってくるというアクセスしかないのもすてきな要因だ。実は友人シエィ・ロペスがここに家を所有していて、ちょうどフィジー戦で家を留守にするのをいいことに俺は鎌倉の中村竜こと、竜ちゃんを呼んで永遠の夏を一緒に過ごそうとやってきた。
夏の南うねりがヒットすれば、伝説レフト、 速いセクションが途切れず半kmの距離が乗れるという パヴォネスが姿を現す。アクセスは未舗装道路の山道を越えていくので、頑強な四輪駆動車が必須となる。
さて、ゲートのドアが開いたようだ。風が海と織りなすノスタルジアを求めて俺と竜ちゃんはやってきた。飛行機より降りて地に足をつけてもまだコスタリカだという実感はなかったが、長旅に一段落ついたという気持ちで少しほっとした。
ノマド=放牧というすてきな言葉があるが、俺たちはこころの放牧をしにきた。空港から山道を2時間下り、ハコビーチでその頑強な四輪駆動車を借り、シェイの家に風邪で高熱を出している竜ちゃんを休ませ、その下のカリチェ岬にリッピングを求めて行く。窓から見えたようにブレイクはかなり混んでおり、それはアメリカ公立校が夏休みに入ったからということだった。アメリカの公立校は、三~四月は春休み、そして六月から夏休みって、休みだらけだよ。そういえばマイアミ・フロリダからコスタリカまでは2時間の航行とかなり近く、悔しいほどだ。「コスタリカはやっぱり5月までに限るなぁ」と独り言。ここにいたサーファーたち全員が舟チャーター組だったようで、夕方になると10人を乗せ、そして別の舟で7人が帰り、ブレイクは去年のように静かになった。
今日は6月8日の月曜日。水曜日から南の大きなうねりがやってくるという波情報。
夜半、大粒の雨が降ってきて、それはまるで台風のようだった。明日の波を夢見て、風の音を聴きながら眠った。
翌朝、暗いカリチェ岬に行くと無人だった。気持ちよく乗り、のんびりとクルーズしていると、10数人のサーファーたちが歓声をあげ、舟がやってきた。彼らのヨロコビを見て泣きたいような気持ちになる。ここは年々サーファーが増えているという噂だが、今年は特に多い気がする。こうなったら気持ちよく海から上がり、自然のプール、潮だまりで少し遊び、明日パヴォネスに出発することを決意し、蟹の足跡だけがある砂浜をゆったり歩いてシェイ家に戻った。
翌朝未明、水、エンジンオイル、スペアタイヤ等、車の全てを確認し、地図も再確認して出発する。途中ドミニカルという混沌の町で迷い、何度も同じ場所をそして行き止まり巡りとなった。なんとか山道に出るが、標識がないのでこの道でいいという確証は何もない。とにかく陽のあるうちにパボネスに着かねばならない。山を越えた頃からドライブは一層困難となる。この時のコスタリカは記録的な大雨が降り、橋が落ちていたり、増水で道が河になっていた。そんな時は、(1)沈没しても脱出できるように車窓を開け、大事なものを身につけ河に進入する。(2)車がやってくるのを気長に待ち、どうやって渡るのか、どこが浅いのか確かめてから渡る。(3)ある時、ずっと車が来るのを待っていたが、何も来なかった。そして一匹の犬がやって来た。犬は河を右から斜めに横切り、途中から少し流されて、ラインを正面に戻し、渡りきった。俺たちはその犬ラインに忠実に進み、ここもメイク。(4)渡るのが無理な河もあった。それは幅100m、深さ推定5mといった大河。流木が多く流れ、他車もバスも徒歩もみんなここで足踏みしている。
絶望に似た気持ちで車を降りると、向こう岸から何かが来る。それは筏(いかだ)のようなもので、大きな樽と丸太を組み合わせて何枚かの鉄板を乗せ、こちら側と向こう岸に張られた鉄線をディーゼルエンジンで巻き取りながらやってくる。「おーこれなら向こう岸に行けるぞ!」と、その到着を待った。危なっかしくもこちら側に来た筏に車を載せ、待っていた人を乗せ、バスも載せて出発。料金は一台200円くらい、人は30円か。…ん?だが一向に動く気配がない。どうやら流木群がなくなるのを待っているらしい。流れてくるのは直径3m、長さ10mという大木群、そして流れが速いのでそんなのを喰らったら一発で転覆するだろう。でも流木群はいくら待っても無くならない。無くならないけどそれをのんびり待つ人たち。 俺はあきらめて車に戻り本を読んでいた。しばらくたっても動く気配がなく、「今日は無理だ。明日まで待つの?」とあきらめた途端に横断を決行した。“ブイーンドルドル~”とディーゼルエンジンが向こう岸からの鉄線をたぐり寄せている。がんばれ急げ!中央付近の急激な流れで筏は斜めとなるが、筏はおかまいなしに進む。少し心配となり、地元風の同乗者を見ると、どうやらこれが普通なようで、めいめいの荷物の上に腰掛け、熱射を浴びながら世間話をしている。向こう岸に無事に着き、安堵する暇もなく、エンジンをスタートさせ、そのまま村道を駆け、パナマ国境近くまで行ったところで3度目のガソリンを補給し、国道を右に折れると角にバーがあり、そこのささやかなる標識に【←PAVONES 68km】とあった!おお、目的地の名前に興奮し、近づいた確信にアクセルを少し踏み込み気味でガンガン向かう。
それから2時間後、夕陽の落ちる頃に俺たちはパヴォネスに着いた。思いかえすと迷い、彷徨(さまよ)った意識のまま、俺はあらゆる道の方角を疑い、なんとかここに辿(たど)り着いた。この夕陽の照り返しの色彩は感動を軽く通り越し、すでに神々しい。
目の前に拡がった湾の左側に面した玉石の河口。世界で5本の指に数えられるという長いレフトはまだうねりが小さく、ささやかなしょぼ波だったが、夕陽の色を落とした雲がやさしく浮いていた。明日南うねりが入ってくるという予想を信じ、流木の転がる砂浜を後にし、予約してあった宿に落ち着いた。出発前にハコの薬局で、抗生物質を注射してもらった竜ちゃんはまだ弱っている。よくまあこんなでこぼこ運転に文句を言わず乗っていたものだ。早く治って一緒にサーフィンしたいよ。
夜は瞬間的に去り、時計は4時半を表示していた。夜明け前にベッドから抜け出し、まだ暗いポイントへ見に行くと、昨日よりもはるかに大きな波が崩れていた。 南カリフォルニアのリンコンを逆さにし、それを2つつなげたような波質と距離で、なるほどTHE DAYには500m以上ものセクションがつながるのが明らかだ。長い波に見とれていたら太陽が昇ってきた。その瞬間は感動的で、あらゆるものが神々しく映った。
まだ熱にうなされている竜ちゃんを宿に残し、歩いてブレイクに向かう。大きいセットでダブル程度だろうか、パーフェクトで、奇跡的に長いショルダーと、広いフックを持つフェイスが特徴的だ。波質は見た目よりも堅く、レイルが噛みづらく、フィンが抜けそうになる。テイクオフし、ファーストセクションは飛ばされそうになるのをこらえながらミドルセクションまで行き、フックに一瞬だけ戻るようなカットバックをし、そのままインサイドに向かい、バレル気味をメイク。強い昂奮が高まり自然と両手を拡げていた。THE DAYの目標となる「湾の端に舟が引き上げてある浜」まではまだ100mくらいあったけど、ゆうに400mはフルスピードで乗った。
また河口の先まで延々と歩き戻り、また1本、もう1本と波に乗る。時間感覚を失い、食事を忘れて波に乗ったのはひさしぶり。昨日の辛ドライブが一気に撒散していく。夕暮れに、竜ちゃんが起きてきて、一本だけ波に乗った。病み上がりのふらふらの体で長い斜面を上へ下へ駈けていった。「すごくいい波です!」という言葉に彼の復活を知った俺は、バーにやってくるというハン・ソロを倍は太らせた風の舟乗りを見つけ、オビ=ワン・ケノビのように翌朝向こう岸のマタパロ(Matapalo)というブレイクに乗せていくように交渉した。スペイン語のみの会話だったのでかなり苦労した。「マタパーロ?マニャナ(明日)、セーズ(7)」という3つで事足りた気もしたが。
とにかく翌朝セーズの7時に虹と共に出発した俺たちはイルカと一緒に湾の向こう側まで渡ると、パヴォネスと鏡写しのライト(レギュラー)波、つまり夢景色がそこにあった。緑を基調とし、空の青をはぜたような視界に「夢心 沸き立つ波の 純粋人生」なる川柳も浮かんだ。この『純粋人生』とはコスタリカの国のスローガンで、PURA VIDAと綴る。まさにこの純な波と、どこまでも拡がる豊かな空間にこだまする鳥の声にPURA VIDAという言葉が浮いていた。魂が詰まった長い波にボードを滑らせながら次のコスタリカはここにゆっくりと来ようと決め、一日をマタパロに捧げ、波乗りへの殉教者の気持ちとなった。
永遠な時間と思っていてもそこは現実世界。ボートから降りてのんびりしているとまた豊かな日没がやってきた。蚊取り線香を点け、ベッドに滑り込み目を閉じると、愉しみは「夢の魔法波」の回想タイム。今日乗った、どこまでも伸びた緑の斜面を繰り返し思い出した。
髪をひかれる思い、とあるがまさにその気持ちだった。
朝、パヴォネスがフラットとなるのを見届けてからシェイ家に戻ろうと出発し、丸一日かけてオフロードを逆戻り。行きに迷った場所は今ではいい思い出だ。なぜかラッキー池田のフレーズ「♪ハイー、ハイッ、ハイッ!♪」と口ずさみ、軽快にハンドルを切りながら何時間も水たまりを避けながら走っていった。
これも夕方ぎりぎりにカリチェ岬に戻ると、近所のサーファーがひとりで波待ちをしていた。(あんなに混んでいた)サーファーはどこに行ったの?と聞くと、俺たちが行っている間にパヴォネスと同じうねりがここにも届いていたそうで、混雑は狂騒となり、たった1mほどのピークのポイントブレイクに50人が押し寄せたそうだ。結果、ボート代(往復約5000円)と乗れない波、または人を避けながら乗ることに対する価格が不釣り合いなことに気が付いたビジターがここを見限った結果、誰も来なくなったという。なんとタイミングがいいのだろう。もし俺たちがパヴォネスに行かなければ、俺たちも混雑で燃え尽きる、または怒りのサーファーになっていたのだろうか。ふむー、これぞ旅のドラマだと、ヤッタゾ!と血湧き、肉が躍る気持ちとなったのはいうまでもない。
翌日は早朝から魂のセッション。ここの複雑な岬の地形が織りなす波は、まるで魔法の玉手箱のようで、次はどんな波が来るのか?とクラクラするほど楽しいのだ。波乗り後、町に出るついでにビーチブレイクに行き、ハモサの大木前無人ブレイクで竜ちゃんがスラッシュしまくった。帰りにスーパーで食材をたんまりと仕入れ、ローカルオンリーの肉魚野菜マカロニポテトサラダゆで卵がたっぷり載ったジュース付きの200円定食に目をうっとりとさせ、腹を満腹にさせる。
やがて曜日はドミンゴ、つまり日曜日となった。このカリチェ岬は別荘地なので、休日となると人口が増加する。カリチェ岬の青と緑を混ぜた色の波上にさまざまな人間が集まっている。ラテン系が多いからなのか、それぞれのキャラがずばりと立ち、なかなかおもしろいのでここに羅列してみた。
(A)ローンを組み、10年前よりこの高級別荘地に住み、よってこの岬波を自分の庭だと勘違いし、またコスタリカサーフィンの長老であり、自分ではレジェンドだと信じているレストラン経営者。グーフィースタンスでセットの一番いい波に乗り、リップのそばで体をかがめるがなぜかチューブには入ってはいない。しかしそれを深いバレルだと信じている45才。
(B)サンホセに自宅があり、ここに親の別荘があり、毎週末サーフィンしにくる19才男。フロントサイド命のレギュラーフッター。
(C)Bの従兄弟。パドリングがようやくできる程度。17才だと思う。
(D)南アフリカから二年間の契約でサンホセに赴任してきた白人40才。ここにも家があり、投資目的で購入したという。「俺の家は、去年は5千万だったが、今では値上がりして1億出しても買えないよ」というのが口癖。インサイドレフトの掘れるセクションでいつもプルアウトしてしまうからAの長老がいつもこのことをたしなめている。
(E)岬の向こう側から自前の小ボートでやってくる銀髪白人。ここに20年住んでいるというがAとは仲が悪いようだ。両手を挙げたジグザグターンがインサイドでの得意技の52才。
(F)その銀髪の彼女であろう18才くらいの子。Tフロント、Tバックの極小ビキニでパドリングし、周りを唖然とさせる。しかしガニマタ横走りだけの乗り技。
(G)Aの許可を得て、正面ゲートから入ってきたハコビーチのメイン通りにある観光客相手のまずく高いことで有名な悪徳レストランの経営者47才。「パラッパラッパラ〜〜」と大声で叫びながら8’0”のシングル+スタビのド派手ファンボードでバックサイドレフトを刻む。図体が大きく、一見アルパチーノ風の目つきであるが、重度の肥満。しかし、岩場に上がる際に手際が良く、わが岩場研究班の竜ちゃんを驚かせた。海から上がると俺たちにビールを勧めてきた。
(H)カリフォルニアでサーフボードのサンディングマンをしているというこれまた肥満の白人。友人がこの別荘のオーナーでそこを借り、11日間休暇に来た40代の男。ロングボードでたまにレフト波に乗るが、テイクオフできるとバンザイを2回し、泡に飛び込む。ここの波は怖いと、正直に白状した。
(I)そのHの彼女。長身で太め。推定体重90キロ、ピークの真下でパドリングするのでかなり邪魔な35才くらいの白人。
(J)黄色のボードに乗った黒髪アジア系のブルースリー風、やせ形色男。レギュラーフッターでエアにチューブまで決めるブレイクの王者。マナーが良く、ハンサムなので、その笑顔にFがうっとりとしていた。28才。これは竜ちゃん。
(K)セットはみんなに乗せ、オバケ波が来て無理にそれを追いかけ、見事に撃沈して一番お気に入りのボードを折ったアジア系のレギュラーフッター39才。これは俺ね。
まあこんな人間観察をし、みんなの休日を邪魔しないように楽しんだ。
翌日からも同じように早朝カリチェで波遊び、潮が干くと、エストレオ・セントロに行く。このエストレオというのは黒砂遠浅の地形。それがびっしりと300m幅で決まり、柔らかな斜面と丸まった3角形の波先を見ているとまるで芸術品のように美しい。
ある朝、ハコとハモサの間の国道沿いにTERRAZAという一見リゾートホテルだが、あくまでもリゾート風味にとどめたという貧なモーテル調のホテルがある。ここの裏のブレイクをチェックしようと、ドライブウエイを走り、フロントを堂々と通り抜け、ささやかな中庭にある白人主義に陶酔したプールの向こう側に出ると、茶色い洞窟のような大バレルが爆発していた。たったひとりのサーファーが巨大バレルに吸い込まれ、長い時間をその中で費やし、遙か向こうから吹き出されていた。この波に魅せられフロリダから移住してきた元ASPサーファーのチャーリー・クーンだった。俺と竜ちゃんは目をみはり、ここに来た偶然に感謝し、ボードを抱えて沖に出た。河を従えた黒砂の砂浜が拡がっている。もう少しすると、熱したフライパンのように熱くなるのだろう。そして大岩が岬側に隆起しているテラザは地形が決まりやすく、クローズアウトしづらいビーチブレイクでその名を馳せている。竜ちゃんとチャーリー君(・クーンね)のバレルセッションが始まり、中央アメリカの妖気漂う浜を世界レベルのフィールドとした。今まで場所ばかりで竜ちゃんの波乗りについてあまり触れていなかったが、 漁師が一目置くという潜り技術、 鎌倉の斜面と、世界の波で鍛えたテクニックで師匠チャーリー君を驚かし、見物に来ていたコスタリカン、そしてフロリダサーファーにスパイスを与えていた。
このまま俺たちのこころの放牧は続き、神がかったこと、動植物にドラスティックな天候、楽しい友人達のことをこのまま書き続けたいのだが、枚数が多くなりすぎて誰も読まないだろうからここで終わることにする。そうだな、旅で大事なのは友と夕陽と波だなあ、ということを確かにしてくれた俺の30代最後の夏がこれで終わった。“Farewell.”
永遠の夏(とわのなつ) 遙か南の(はるかみなみの) 夢雫(ゆめしずく)
(了、4/7/06)
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何だか・・・
(A)のリップのそばで体をかがめるがなぜかチューブには入ってはいない。しかしそれを深いバレルだと信じている45才。
何だか勘違いが私とおんなじです。(私は43ですけど)
竜さんのインプレ、同じエリアなのでとても親近感があり参考になります。
何だか勘違いが私とおんなじです。(私は43ですけど)
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プロフィール
名前:Naki 2009 または船木三秀
HP:NAKISURF
性別:男性
職業:専門職
趣味:海
自己紹介:
11年暮らしたカリフォルニアからノースハワイ島に住みかえ、毎日クオリティの高い波で波乗りをしています。
私は波乗り殉教者で、肩書きはプロサーファー、写真家、画家、ルポライター、デザイナーです。
風が創ったさざ波が合わさり、遠くの洋(うみ)から陽の下、夜の中を駈けてきたうねりに乗る、というような気持ちで波に接している。
その欲求と探求心は飽くことがないようで、小さい頃からの夢であった世界の海を旅し、自分なりのアウトプットを続けています。
波を知ることは海を知ること。その深遠無限のインスピレーションを感じ、ゆらゆらと絡まった日々をこのブログで綴れたらなあ、と。
そんな波乗りの奥深さ、その意識や感覚を文章、写真、絵で表現できたらと思っています。
同業の方、同じ夢の方、海が好きな方、波乗りを愛する方、この場でお話しましょう。
ありきたりの道具論に留まらないメッセージをみなさまと創ってみたいのです。
また、カリフォルニア州、サンクレメンテ発のサーフショップ『NAKISURF.COM』も運営しております。
こちらは長年培ったサーフ業界のコネクションを活かし、世界で一番誇れるWEB STOREを目指しておりますので、どうぞご覧になってください!
ぜひ!
どうぞよろしくお願いします。
私は波乗り殉教者で、肩書きはプロサーファー、写真家、画家、ルポライター、デザイナーです。
風が創ったさざ波が合わさり、遠くの洋(うみ)から陽の下、夜の中を駈けてきたうねりに乗る、というような気持ちで波に接している。
その欲求と探求心は飽くことがないようで、小さい頃からの夢であった世界の海を旅し、自分なりのアウトプットを続けています。
波を知ることは海を知ること。その深遠無限のインスピレーションを感じ、ゆらゆらと絡まった日々をこのブログで綴れたらなあ、と。
そんな波乗りの奥深さ、その意識や感覚を文章、写真、絵で表現できたらと思っています。
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13ft 16sec @314(NW)_リアルイナリーズ崇拝者より_間隔は16分?_ピンボケ愛の日_長くなったリーシュ_サメ君でサーフ_D大先生のSF_2灯フラッシュ_津村隊長ありがとうございました!
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